麻雀を通して人生を考えてみた
やりたい事だけやってきた男と
何一つやりたい事をやってこなかった男か・・・
(この記事は3分で読めます)
先日の近代麻雀でやっていた連載で、人生を考えさせられる場面があったため記事にしました。
かねてから私は「麻雀とは人生に似ている」とつねづね思ってきたわけですが
今回の場面でもうーんと考えてしまいました。
題材とするのはトップ画像の漫画
小松大幹著「赤鬼哭いた」より
あらすじは、麻雀クラブに所属するいじめられっこだった主人公が
とある神社で「麻雀強くなりたいです!」とお願いをした。
そしたらその神社の鬼が自分に憑りつき、麻雀に関しては絶対負けない実力がついた。そこで出会う人たちの人間模様についての漫画です。
今回登場するのはとあるサラリーマンの話。
彼の名前は五味。
すべてにおいて時間きっちり、真面目にこなすことが取り柄の一人のサラリーマン。
毎日の行動がすべて時計通りで5分とたがわず行動する男。
彼がそうなった理由は父にあった。
認知症で介護をしなくてはならず、青春時代をほとんど遊ばず過ごしてきた彼。
ある時ほんの出来心で30分だけ遊びに外出した時、
父が吐瀉物をのどに詰まらせて他界してしまった。
そのことをで自分を責めて彼をより真面目で時間を守る真面目人間にしていった。
そんなある日、高校時代の同級生にふと会う。
出会った同級生は破天荒ながらミュージシャンとなり、有名になったが今は活動を休止している男ヒデ。
そして真面目な彼が会社をさぼって飲みに行くことになる。
そこで高校時代に思いを寄せていた女性エイコに再会する。
(彼女は現在ヒデの女)
そしてひょんなことからヒデとエイコをとりあって麻雀勝負を挑むことに。。
そして、
その麻雀勝負でまるでそれぞれの人生を投影するかのような局面が訪れる。
ヒデ君は自分のやりたいように打牌をし強気で自由な打ち方をする。
対して五味君はセオリー通りでマイナス思考で後ろ向きな打牌をする。
その様子をみて鬼が一言
この回を読んでうーんと私は考えてしまった。
というのはどう考えてもやりたいことをやっている人生のほうが楽しいのに、
なぜ我々はそれを我慢する生き方を選択しがちなのか、ということである。(五味の生き方に共感するひとが多い気がするし、実際私も五味に感情移入してしまった)
一つには自分のやりたいこと、したいことが明確に分かっていない、
考えたことがそもそもないという人が多いというのはあると思う。
自分のことが自分は一番わかっていないというのがあると思うし。
あと国民性。
欧米人は根底が自由、でもキリスト教的にいろいろと律しなきゃいけないよね的な考えがある気がする。
日本人は根底が縛り、でも自由な生き方にあこがれるよね、的な感じだと思う。
寅さんや釣りバカの浜ちゃんにあこがれる国民性がよく表れていると思う。
私は麻雀を通じて思った。
基本的にやりたいことをやっている人は強い
やっぱり魅力的に見える。
し、そういう打ち方の人は強い。
ただ、超えてはいけない一線はちゃんと超えない、そういうバランスがあるひとが強い。
子の曰わく、 吾十有(ゆう)五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。
孔子の有名な一説であるが、
あの孔子でさえ「自分のやりたいことをやって度をこさないようになった」のは70の時だと言っている。
別にやりすぎてもいいじゃない。
自分の人生を生きればよろしい。
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」
とユダヤ教では教えている。
「われわれは他者の期待を満たすために生きているのではない」
とアドラーも言っている。
そういう風にもっとわれわれは生きていってもいいのでは?
そんなことを思いました。
おしまい。